「きっかけはほんの数十秒」

川本町

みやけ きよみ

三宅 喜代美

川本町生まれ。一度は地元を離れ、東京で学生生活を送った。東京工学院大学に進学し東京で就職する。東京では真空管や、トランジスタといった音楽機器の仕事に携わっていたが、あるきっかけを経て川本町に帰省。現在は父親の電気屋「ベスト電器」を継ぎ代表。楽曲制作や歌手などの活動もしながら、地元川本町で生活を送る。三江線の廃線を機に、より地域に目をむけるようになり現在様々な活動で活躍。

一どんな活動をしていますか?

事業を引き継ぐ前は父親がミヤケラジオというお店で主にラジオを販売していました。当時戦後だったため電化製品は高価な時代でしたが、各民家に普及できるよう仕事していました。
当時の川本町の人口は1万人を超え、電化製品を販売している会社は7店舗ほどありました。時間とともに人口は減少し、現在では2店舗のみとなってしまいました。
現在はベスト電器という会社名で、テレビなどの生活用品をはじめ、アンプなどの音響製品や電化製品を中心に販売しています。

その他にも三江線の廃線決定をきっかけに地元川本町のために様々な活動を行うようになりました。川本町観光協会の大久保さんとともにアイディアを具現化していき、三江線貯金箱や、ラミネート、ボトルキャップなどを作成し販売しています。廃線当日(平成30年3月31日)までに本当にたくさんの方々が駅に足を運んでくれました。

一はじめたきっかけはなんですか?

はじめは川本町を出たくてたまりませんでした。なので進学、就職は東京でしました。東京での就職は困難でした。あの時代まず自分が兄の立場である以上保証人になってくれる会社はありませんでした。しかし、30数社目にして驚くほどすんなり受け入れてくれる、ラクオスという会社に出会いました。父親の仕事を見て育ってきたので耳には自信がありました。東京では真空管やトランジスタなど楽器機器の内部構造に関わる仕事をしました。そんな中、突然父親が倒れ、帰らなければいけない環境下になりました。
東京の荷物は友人らに譲り、故郷である川本町に戻って父親の店を継ぎました。継いだはいいものの、できることは小学校などの配線工事しかありませんでした。
今から約15年前、期待に胸を膨らませ、ベスト電器の本社がある福岡に行きました。結果はたった5分程度であっけなく蹴られてしまいました。家族を養っていく上でも重要な決断だったので、その反動は大きかったです。しかし5年後、なんと突然ベスト電器のほうから「是非」という声をいただき、系列店に加わることになりました。

一一番大切にしていることはなんですか?

努力すること。接客するうえで一番大切なのは相手のペースに合わせたコミュニケーションです。相手がゆっくりペースなら、私が早口では伝わるものも伝わりません。その逆も同じです。会話の中にあるほんの数十秒のきっかけが本当に大切なことなんだと思っています。これに気づくことができたのは、何度も接客をし、毎日のように勉強をしたからです。

天狗にならない。いくら経営状態が良くても天狗になることは絶対にダメです。
大切な友人を失い、徐々に孤独な未来にむかっていくと思います。友人を大切にし、穏やかな心で物事に取り組むことが大切だと思っています。

一今後の目標を教えてください

人口減少しているのは確実なので助け合いたいですね。今はお隣の新栄寿しさんの広告宣伝のお手伝いや地域のお祭りである神楽の宣伝物も作っています。
電化製品販売は宣伝が命なので、ほかの業種にも同じようなことをしてみています!

編集後記

海老名 快(えびな かい)19歳
川本町を出て東京に行きたい。三宅さんはそんなことを思っていました。実際に東京に出ていろんなことを経験して、帰って来なければいけない状況の中心の葛藤も大きかったと思います。それでも川本町に帰り、自分の経験、知識を活用して人のために、町のために尽くす三宅さんがすごくかっこよかったです。

-コーディネーター紹介-

島根県

だいがくせいらいたー

大学生ライター