ふかふかの土壌が大きな実を結ぶ

兵庫県洲本市

やまぐち くにこ

やまぐち くにこ

特定非営利活動法人 淡路島アートセンター設立やハタラボ島協同組合メンバーなど、多岐にわたる活動を島内外で行っている。『Fkeys+(エフキー)』というファンクションキーを意味する屋号も持っており、"間に入ってどう繋いでいくか"、"どういうところに価値があるか"を考えながら、多くのプロジェクトに関わっている。

一どんな活動をしていますか?

正直、「何をやっている人かわからない」と言われます。"淡路島アートセンター"や"まなびの島"のようなNPO法人の活動もしていれば、"ハタラボ島協同組合"にも関わっているし。実行委員としては、"島のふく-HAREGI-"や" Awajishima Sodatete Market"も関わっています。

私自身は「Fkeys+(エフキー)」という屋号を持っていて、自分の存在がちょっとしたショートカットキーのようになれればよいと思っています。何物でもないというのは、実は自分がそうありたいと思っているからです。自分がどんな変化もできて、何かの専門家というよりは、間に入ってどう繋いでいくか、どういうところに価値があるかを考えていきたいと思っています。

実をいうと、もともとは島が好きではありませんでした。子どもの時は、カレーのにおいがしたらスプーンを持ってほかの家へいって一緒に食べるくらい、人と人の距離が近い暮らし方をしていました。周りに親がいっぱいいるような感じです。近所のおばちゃんと「おはよう」、「今日寝坊したな」みたいな会話や、門限超えて帰るようなら、「門限過ぎてるで!」などと言われたものです。お風呂で歌っている歌が何だったか、などまで筒抜けでした……成長するにつれて、地域の小さなコミュニティの価値観で生きていかなくてはいけないのが窮屈になったんです。

子どものころからアートに興味があったので、進学を機に一生戻ってこないと誓って島を出ました。でも島を出てみたら、人との関わりの薄さに驚きました。仕事は責任もあるのでやりがいをもって働いていましたが、物足りなさを感じました。結婚を機に島に戻ってくることになったのですが、戻ってきたときには「そうだ、これが嫌いだったんだ!」と思い出したんですけどね。島を離れたことは振り返るきっかけにもなりました。

島で暮らすと決めて帰ってきたので、何ができるか、この島でどうやって生活していくのかを子育てをしながら漠然と考えていました。結局、自分の自転車で行ける生活範囲を、自分で居心地よく変えるしかないという結論に至りました。すごく自分勝手に暮らしているとは思うけど、これが周囲の環境を良くすることになっています。そのため、淡路島のためにという想いは、実はあまり強くないです。

最近は、淡路島で行っている取組を別の地域でもやって欲しいと言われて、他地域の人を取材させてもらいました。ライターチームは対象地域の市民団体の方で作りました。初めて島の外でチームを作ることをやらせてもらったわけですが、淡路島でやっていることが他の地域でも通用するのかなという気持ちがありました。自分の生活圏でないところでどうやって地域の方と関われるかを考えていて、非常に楽しいです。

一今やっていることについての課題はなんですか?

最近、年表のようなものをまとめてプロジェクトを書き出した時に、終わっているプロジェクトが無いということに気づきました。今はそれが一番問題だと思っています。続いていくものはバトンを次に渡していくことが必要だと思います。中途半端になっているものはずるずる引きずるので無く、次に進めていくことも必要です。しかも、全部頭の中で管理していて……一応プロジェクトメンバーをメールのCCに入れるなど情報共有はしているのですが、メールを返さないといけないけれど、気づけば夜ということもあります。ツールもいろんなツールを使っているので大変です。

アートセンターを立ち上げてアートフェスティバル(2005~2012年)というものを開催していました。その当時はコミュニティアート(アーティストや市民などの協働により、アートを媒介として、コミュニティの抱える課題の解決やコミュニティの新たな価値の創造をめざす活動)が、勢いのある時代でした。アートセンターを立ち上げた理由は、2004年に台風23号が直撃し、淡路市で土砂崩れの影響を受けた家屋が見つかり、NPOを作って支援活動にあたったことから始まっています。アートフェスティバルをやっていて、「淡路島いいね」と毎年来てくれる人もいました。「そんなにいいなら住めばいいじゃん」という話をすると、「仕事が無い」といわれます。

この経験から、仕事を作るにはどうしたらいいのという事を考えるようになりました。大分九州ちくご元気計画という事業をしている方に出会い、厚生労働省の事業でやっていることを聞き、淡路島でもやればよいという発想で始めたのですが、事業化まで2年かかりました。行政と一緒にやらなければいけないのですが、行政と動ける状態になるまで、1年半くらい何回も通いましたかね。この事業のために仕事を辞めて関わってくれる人もいて……その方は、2005年のアートセンターの立ち上げから一緒に活動していた方なので、一緒にこの事業もやりたいと思って声掛けしたのですが、結果的に1年半もの間、無職で携わってもらうことになっていしまいました……この事業の成果のひとつとして、「地域×クリエイティブ×仕事」という本が出版されました。行政の話など赤裸々に描いたのですがよく出させてくれたなと感じます。

淡路島は大企業に勤めるのとは違うので、生業レベルの仕事(家業レベルの仕事)が必要だし、クリエイティブな力をどう作っていくかが必要ということをまとめました。そのために、デザインの考え方を島の中に入れるということに注力しました。デザインの仕事ってタダだと思っている人がいっぱいいます。淡路島だと印刷屋さんが全部やってくれると思っている人がいたりもします。4年間かけて浸透を目指してきましたけど、終わったらすぐに元に戻ってしまいました。デザインといえど、デザイナーにそれぞれ得意の仕事があります。それらをどのようにして地域に取り入れていけるか、そのクリエイティブな発想が地域には乏しいと思っています。
 
自分の自転車で行ける生活範囲の中にも、学びがありました。この島には何もない、ワクワクすることは都会にはあると思っていましたが、何事も知ったうえで判断するべきだと思うようになりました。そう思うようになったきっかけは、漁師さんとプロジェクトをした際に私が「淡路島を嫌い」と言っていることに対して、漁師さんが非常に不機嫌になり、話をしてくれないし会議にも参加してくれなくなったということがありました。それでも私は毎日会いに行き、事前に連絡すると逃げられるので、不意打ちしたりしたこともありました。露骨に無視されたこともあります。ようやく話ができた時には、「漁師は地域が嫌いと言ったらできない仕事だから、嫌いと言えるというのはうらやましい」と言われました。その時に、私は地元が嫌いだと軽く言っていたけど、重い言葉だったんだなと思いました。本音を聞くこともできて、とても貴重な体験になりました。

私の子どもたちが大学生になってから、「淡路島には自然環境があるけれど、自分たちは体感できていない」と私に怒ってきたことがあります。「学校では、山や川に遊びに行ってはダメだといい、規則が多くダメダメづくしで、実は体験してない。都会の人はワークショップを通して、ロープ結びや火の起こし方など、いろんな経験をしている」と言うんです。そういうのはプログラム化した方が良いのではないかと言われたことがありました。(気づいたら今からあなたがやったらいいやん、と子どもに反撃したりしてるんですけどね……)

一課題を乗り越えたらどんな可能性がありますか?/ITを使ってできそうなことはなんですか?

コロナになって半強制的にデジタルに向かったと感じるところはあります。でもやっぱりアナログとのバランスが大事だと思うようになりました。デジタルの動きがコロナの影響もあって加速した当時は、出かけなくてもいいし買い物もできるので、今までの時間は何だったのだろうと思った時もありました。しかし、オンラインミーティングで出会った方と、もう一回話をしたいという気持ちにならなかったです。今までは、出会って、話をして、名刺交換してということで、あの人どうしてるかなとかありましたけど、オンラインだとそれがあまりなかったです。今は直接会って話す機会も戻ってきているので、そういう感覚もなくなってきたけれど、あの当時は疲れた感じがありました。

特にデジタルは得意分野ではないので、何か買うとか、最近はオンラインミーティングなどの活用するくらいなので、何ができるかというのは全然わかりません。ただ、必要だとは思っています。知らないことが多いから、知ることによって繋がりやひらめきができると思います。これだったらこんなことができたらいいなと思うかもしれません。

一今後の目標を教えてください

活動を始めた時から使っている肩書で、「淡路島を耕す女」というものがあります。地元としてできることは何かを考えたとき、"ふかふかの土壌を作っておくこと"だと思いました。私は、種でもないし、肥料でもない、摘み取る人でもないと思っています。地面を耕して、いい種が根付くようにするというサポートするということが役割だと思っています。

淡路島に移住する方は、意思や目的をもって移住してくる方が多いです。だから、助けてというSOSが案外少ないです。自立した方が多くて、土地が無い、仕事が無い、暮らし方がわからないといった方はそんなに出会いません。ポジティブな印象です。移住してきてすぐに事業化された方もいます。いろんなパズルがはまってきて、こういう人がいればいいと思う人がぱっと表れてパズルにはまっていくような様は面白いと思います。だからこそ、淡路島が、新しい事をやりたいと思う人が自由に試せる環境になればいいと思います。実験島みたいな感じです。失敗も恐れずやってみて、島で流行らすだけでなく、持ち帰って貰っても良いと思っています。橋をこえるのが一つのスイッチになればよいのではないでしょうか?もともと観光地だったので、ウェルカムな人が多いですし。

実は「移住という言葉は重いからやめて」と言われたことがあります。神戸から大阪に引越すのは引っ越しというのに、神戸から淡路島に行くのは移住といわれると重いと感じるわけです。移住となると背負わされた感があるのでしょう。最近は引っ越しと言うようにしています。本人が引っ越してきたのか、移住してきたのかは、周りが決めてはいけないのではないかと思います。最近は人と人との距離が近い関係がなくなってきてもいます。昔それが嫌な時もありましたが、今は恋しい部分もあります。信頼や助け合う関係性ができればよいと思います。

AWAJISHIMA shishikaという害獣駆除で出てきた鹿と猪の肉をどうブランディングするか?という洲本市とのプロジェクトでは、デザイナー、映像作家、お肉を使ってくれる料理人、バイヤーなどを集めて関西圏でチームを作りました。プロジェクトの範囲が島内だと思えば、島内でチームを作るように考えています。私はプロジェクトの発起人になることが多いです。「耕す人」なので、言い出して人を巻き込んで最終的には集まってきた人たちの手によって広まっていくのを、見守って手を振っている人だと思っています。いろいろアイデア考えていると、いろんな人が絡んで来ます。いろんな仕組みを作ったり、プロジェクトを進めたりするとみんな「いいね」、「やりたい」と言ってくれます。じゃあ誰がやる?となると、旗振り役や責任者をやりたいという人はなかなか出ません。だから、そこを担うだけだと思ってます。一緒にやるメンバーがこけるわけないし、逃げたりするわけではないという信頼関係があるから、代表に名前を書くだけです。謝るくらいならできるし、「実印押したるでっ!」という感じでやるときもあります。そんなことをしていたら、気づけばいろいろなことをやっていました。最近ようやく自分のWebを作って、まとめていこうと思っています。

編集後記

「淡路島を耕す女」というインパクトある肩書が、まず印象に残りました。農業を考えたとき、土が大事というのはよく言われることです。しかし、意識してしまうのは結果としての、実のなり具合だったり味だったりではないでしょうか?長年の “耕す”という活動があるからこそ、現在のプロジェクトや関わっている団体と、多くのものが育ったのだろうと感じます。インタビューの中であった“耕す”という考えや意識は、勉強になりました。

-コーディネーター紹介-

ID 島根県美郷町・兵庫県洲本市

たまがわ ひろゆき

玉川 博之

2009年 株式会社VSN入社
2016年より社内の教育部門に在籍し、エンジニア育成に取り組む。社内のセキュリティ分野立ち上げなどに従事し、同年よりセキュリティ系の業界団体への活動に参加。現在では業界団体のWG活動にて、セキュリティ人材のキャリアデザイン検討を行っている。